ここに確かに存在している感情の証明

箱推しの村上担。特に三馬鹿に湧きがち。

蜘蛛女のキス感想&考察(まとめられないけど)無理やりまとめてみた

※がっつりネタバレ注意!!!!※




どもども、ゆづきです。
5/28、29と連チャンで舞台を見て参りました。
蜘蛛女のキスとジレッタです。
いやぁ…疲れた、本当に疲れた…。
でもとても楽しい、素敵な時間でした。
感想まとめられる気がしないと思っていたけれども、やはり残しておきたい。
今回は蜘蛛キスについての感想をば。
初めに断っておきます、語彙力皆無です。
いつものことですね。
あと激しく記憶が曖昧なのでセリフなど微妙に間違ってると思います、ニュアンス的な感じで捉えて頂けると嬉しいです。
いつものことですね。
それからレポ的な感じではないです、ほんっっっとうに個人的な感想と考察です(真顔)
あ、いつものことですね。




5/28 蜘蛛女のキス in東京グローブ座

まずは一言…

大変素晴らしかったです。

過去にもいくつか演劇を見たことはありましたが、正直ここまで感情を揺さぶられた舞台は初めてでした。
中盤以降は泣きっぱなし、恥ずかしながら嗚咽まで漏れ(本当に恥ずかしい)終演後に余計泣けてくるという異常事態。
映画やドラマなどの映像作品も大好きですし、素晴らしいものはたくさんあります。
だがしかし、生にかなうものはなかった…。
失敗できないという緊張感と熱量がケタ違いで、迫力が全く違う。
注:映画は手を抜いてるという意味ではありません。


原作未読、映画版も観ていない状態で前知識無し。
一言で感想言えと言われたら(無理だけど)なんと答えるか考えたら…

「圧倒的美しさ」

これに尽きる。

しかし何が美しかったのかと聞かれても、うまく答えられない。
ただ、画が、セリフが、空気が全て美しかった。
それはキラキラした煌びやかなものではなく、閉鎖的で退廃的な美しさであったと思う。
恐らくそう感じさせたのは、思想だとか革命だとか男だとか女だとか難しいことはよく分からないけれど、逃げられない檻の中で2人しかいないという孤独感にあるのではないだろうか。
ひとりではないけれど孤独。
2人同じ部屋に一緒にいるけど、お互いひとりぼっち感。

彼らが話している政治や思想については頭の良くない私には理解が追いつかなくて、正直とても難しかった。
それに加え、トランスジェンダーなど複雑な要素がこれまた複雑に絡み合っているわけで。
私はこういう単純明快とはいかない、それこそ蜘蛛の糸を張り巡らせるような物語が大好き。
考察せずにはいられないので、自分なりにストーリーを噛み砕いていきたいと思います。
(製作者側の意図を知らない状態で考察するのが好きなので、パンフは買いましたがまだ全部は読んでいません)

※あくまで個人の考えです。



とりあえず、私がこの舞台を観て考えていたことはひとつ。

2人の間にある感情は、愛なのか?

演出の鈴木裕美さんが「究極のラブストーリー」と仰っていたのを見ると、愛…ということになるのかな。

ここで気になるのはその「究極」の部分。

この言葉が意味するものは何か。
観劇する身として探さずにはいられない。
きっと観る人によって意味は異なると思うので、私なりにということを前提でお話していきますね。



物語は相部屋の牢獄でモリーナ(いっけいさん)がヴァレンティン(大倉さん)に黒豹女の映画の話をしているところから始まる。
モリーナはとても感情豊かに映画の細かな描写まで語っていくけれども、ヴァレンティンはずっとベッドに仰向けで寝転がってて、適当に話を聞いている感じ。
でも時々モリーナのお気に入りのシーンをなじったり、あんたの考えは間違ってる!と言わんばかりの突っかかりを見せたり、なにかと気性が荒い。
そりゃそうです、ヴァレンティンさんは世界を変えようと活動していた革命家なのに、こんなブタ箱(古い)に閉じ込められて悶々としてるんですからね。
(でも何だかんだ言ってモリーナと一緒にひとつのテーブル使ってご飯食べてたりする)

一方のモリーナは病気の母親のことを常に気にかけている優しい人で、ヴァレンティンのことを気難しく思いながらも、お茶を入れてあげたりお腹下したときにケアしてあげたりと献身的、女性よりも女性らしい。
彼が苛立って酷いことをしたり言ったりしても、許してくれと言えば許さないといけないことなんて何もないわと答えるほどの聖母ぶり。
だがそこには、自分の刑期を短くする為、裏で交わした取引きの存在があった。
ヴァレンティンに心を許させて仲間の情報を聞き出すという目的で、モリーナは彼に尽くしていたのだ。
所長が用意したたくさんの差し入れを、モリーナは母親が持って来てくれたと嘘をついてヴァレンティンにも分ける。

基本的にこの舞台は2人の会話劇で展開されるのでシーンは2人がいる部屋で固定されているけど、所長がモリーナに面会に来るシーンだけは視点がモリーナに移る。
そこで観客は取引きの存在を知ることになる。
モリーナがヴァレンティンを騙そうとしていること、そしてそれを知らないヴァレンティン、これを観客に見せるシーン割りによって、2人に対する感情移入が深まるのだと思う。
ヴァレンティンはより孤独感が際立ち、モリーナは偽りの笑顔を彼に向けていると気付くと、胸が苦しくなる。

だが正直初め、私にはモリーナの本心が分からなかった。
痺れを切らせてヴァレンティンに拷問をさせようとする所長にもう少し時間をくれと言うけど、部屋に戻ってもヴァレンティンの仲間や活動については私が拷問されることになるから聞きたくないと必死で拒む。
母親の為に早く出所したくて取引きを承諾した(はず?)なのに、どっちかずの態度を取っているのは何故だろう。
ごめんなさい、これはきっと私の理解不足です。

優しい性格ゆえに悪人になりきれなかったから?
それともヴァレンティンのことを愛してしまったから?

ここまで本編の約半分ほど。
後半では少なくともモリーナはヴァレンティンを愛しているのかなと思った。

モリーナの感情の動きを感じたのは、背を向けて寝ているヴァレンティンの髪に触れようとして手を引っ込めるシーンかな…。
ここ凄い良かった。


夜毎、映画の話をしているうちにヴァレンティンは徐々にモリーナに身体を向けて話を聞くようになってくる。
そして彼が外に残してきた恋人への手紙の代筆を頼まれるくらい信頼を得ていって、モリーナ自身もヴァレンティンに対する想いが固まっていったような気がした。
でも徐々にモリーナの立場も厳しくなっていくわけです。
何度目かの所長からのせっつかれで、自分が釈放されると嘘をつけば話すかもしれないと提案(所長はモリーナがヴァレンティンに肩入れしていて外で仲間との接触を図ると考え、ガチでモリーナを釈放する予定)して部屋に戻ったモリーナの作り笑顔。
強がってる感じはヴァレンティンにも分かるほどだった。
身体が痛いとベッドに横になったモリーナをさすってあげて、隣に添い寝して、「その、まぶたの上のほくろに触りたい」と言うモリーナの言葉も受け入れ、2人は一線を越える。
事後の「なんだかここに私がいない気がした」「いえ…私が、あなた」というモリーナの呟き。
これは、心までも一体化してしまったという意味?
ここずっと涙止まらなかった。

このベッドシーンは若い男と女(身体は男だけど)がずっと同じ部屋にいたらそりゃ溜まるっしょ、とかそんな軽いものではないと私は思う。

外部との連絡を絶たれ、あんなに広かった世界に今ではお互いの存在だけ。
自分ひとりの思考に耽ってしまっては、発狂するかもしれない。
互いの声を聞き、肌に触れずにはいられない。

戦争映画などにあるベッドシーンとも似ている気がする。
生きていることを実感するため、埋められない孤独感を他人と体温を合わせることによって少しでも軽くする。
明日死ぬかもしれない、極限の状態で交わされるキスやセックスには(不謹慎だけれども)なんとも言えない美しさがあると思う。
性行為はどこまでも生命の象徴であり、死と隣り合わせの彼らはその行為によって命を輝かせる。

革命には犠牲がつきもので、戦いの末の死であれば名誉とさえ思っている部分てあると思う。
ヴァレンティンは自らの活動を「この世の為」正しいと信じて疑わない。
対してモリーナは、革命が起きるか起きないかに対してはあまり関心がなさそうに見えた。
彼女はただ、ヴァレンティンというひとりの男性に対し、力になりたいと思ったのだと思う。


で、今回の2人の情事。
軽い気持ちじゃないってんなら、つまりここにあるのは「愛」なの?と問われたら、うんと断言ができるほどの確信は持てなかった…。

それは私がモリーナに感情移入してこの舞台を見ていたので、ヴァレンティンの心の動きを見逃してしまった感が否めないことも要因にあると思う。
そこ後悔しかない。
ヴァレンティンの態度の変化にようやく気付いたのはモリーナに手を握ってと頼むところあたりから(遅い)

最初はモリーナのことを「あんた」と呼んでいたけれど、途中から「君」に変わる。
馬鹿にしたみたいな笑い方もしなくなり、モリーナの自分を卑下するような発言に対して怒ったりもするようになる。

中盤あたり、モリーナはヴァレンティンに「友達になりたい」と伝えていた(と思う)
でもヴァレンティンは特に言葉でモリーナに対する想いを言っていなかった気がする(聞き逃してたらごめんなさい)

ヴァレンティンのモリーナに対する感情はなんなのだろう。

モリーナが牢を出る直前、キスしてほしいと頼むシーンがある。
そこでヴァレンティンは彼女の肩を抱いてキスをするけれど、あれは優しさから?と頭にハテナの無限ループ。

でも、その後モリーナがヴァレンティンに代わって外で彼の仲間に連絡することを願い出た(ずっと断ってたのに)とき、「それを言おうとしていたの?」と聞いて思わずしてしまったキスは、先ほどとは意味が違う。

もしバレたらモリーナの命はないはず。
命懸けの自己犠牲を払って外に出るモリーナを、ヴァレンティンはどう思っていたのか。
ここ完全に私の汲み取り能力不足のせいよね><


それで、ラスト。

2人は映画の話をしていた時のように、お互いがどうなるのか語り合う。

ヴァレンティンはモリーナが外で仲間と連絡を取り合い、母親に再び会うことができる。
しかし警察に見つかり、仲間のひとりが君に向かって銃を放つ。君が警察に追われたら、仲間にそうしてくれと頼んでおいたんだ、と話す。

この言葉を聞いたときの、モリーナの表情が忘れられない。
とんでもなく穏やかな微笑みを浮かべて頷くのだ。

モリーナはその結末を受け入れている。
ヴァレンティンの為に死を覚悟で、というか、もはや彼女にとってこの死は覚悟もへったくれもなく自分が辿るラストとして自然なことなのだろう。

続いてモリーナは、ヴァレンティンは激しい拷問を受けた末、病気が進行して死を迎えると話す。
このとき、ヴァレンティンは悲しげな表情で何か言うんだけども(ここ覚えてないのポンコツすぎ)それを即座に否定して、「貴方は自分の理想の為に死んだのよ」と告げる。

その言葉を投げかけられたとき、ヴァレンティンはモリーナに笑顔を向ける。
牢の扉が開き、白い光の中、モリーナはヴァレンティンに背を向けて歩き出す。
扉が閉まると、そこは闇。

はい、号泣。



さて、フィナーレまで観て改めて「究極」の意味を考えてみる。

辿り着いた結論。

この「究極」とは「死」のことではないか。

モリーナがヴァレンティンにずっと語り続ける黒豹女の映画の話。
1942年ジャック・ターナー監督作品キャット・ピープルという実在の映画のことらしい。

自分が猫人間の末裔であり、キスをするだけで豹に変身し男性を殺すと信じたヒロインは、求婚され結婚しても、夫との関係を深めることができない。夫は職場の女性に相談するが、その内愛人関係になる。一方、夫に勧められて受診した精神科医師はヒロインに言い寄るが、ヒロインの手にかかり死ぬ。絶望したヒロインは動物園の豹に殺されるべく、豹を檻から逃がしてしまう。

引用:ウィキペディア

モリーナは主人公のイレーナと自分を重ねていた。
イレーナの自分が豹になるのではという妄想は「男性恐怖症」に対する防衛本能のようなもので、モリーナは(恐らく)男なのに女性として振舞い、男に恋愛感情を持つ自分が他人に受け入れてもらえるはずがないという思い込みをしている。

ヴァレンティンはこのストーリーを聞きながら、俺は精神科医が好きだと言っていた。
理由を言っていたかどうか曖昧なのだけど(本当に後悔しかない)
映画のラストをヴァレンティンが聞いたとき、「イレーナも医者も死ぬわ」とモリーナは答える。

精神科医は変身したイレーナに殺され、彼女は自ら豹に殺される。

キャット・ピープル」は観たことがないのだけど、あらすじを読む限りどうやらキスが重要なキーになっている様子。

キスをすると豹に変身して、相手を殺してしまう。

キス=死

ヴァレンティンはモリーナに「君は男を絡めとる蜘蛛女だ」と言うシーンがあって、つまりこのタイトルの蜘蛛女とはモリーナのこと。
黒豹女のイレーナに殺された精神科医モリーナとのキスで死を迎えるヴァレンティンと考えると、ラストのモリーナとのキスは、ヴァレンティンは自ら蜘蛛女に喰われにいったということ…?
そして牢の外へ向かうモリーナは精神科医を殺してしまったショックで豹の檻を開けて喰われにいくイレーナと同じく、自ら死ににいくということ…?
(でもモリーナの場合はただひたすらヴァレンティンの為にって様子が窺えるからそこはちょっと違う気がするけど)

そう考えるとこれは、心中のお話という解釈も成り立つのかな。

「死」で繋がれた愛なら、究極って感じがする…よね(私はそう思った)


ここまで書いてきて、もうひとつの疑問である「2人の間にある感情は愛なのか」という議題に対してもひとつの答えがでた気がします。

考えた結論としては、愛である、と思った。
キスという行為に対しての意味を「心中」と取ると、ヴァレンティンはモリーナに対して愛を感じていたと思う。


以上が感想&考察でした。



はぁ…原作を読んで2回見に行くことができればもうちょっとは理解できそうな気もする…いや、気がするだけ(撃沈)
そうそう、原作についてググってみたんですが、これどうやらほぼ9割が会話のみで構成されていて最後の方までどこの誰がどんな場所でこの話をしているのか分からないそうなんですよね。
なんだそのアナーキーすぎる構成は…!!

2人舞台、セリフの量が半端なかったし、とにかく凄かった。
なんだろう…本当に完全に物語に入り込んでしまっていて、訳が分からんくらいに泣いた。

それは「大倉さんもいっけいさんも凄い…」という涙ではなく、「ヴァレンティンとモリーナに泣かされた」涙だった。

大倉さんがヴァレンティンをやっている、いっけいさんがモリーナをやっている、ではなく、そこにいたのはヴァレンティンとモリーナだった。
観劇した動機こそ大倉さんに会いたいというオタク心からだったけど、舞台の上の大倉さんは大倉さんじゃなかった、ヴァレンティンだった。
(あ、勿論ね…やっぱり大倉さんのこの角度いいな…なんていう邪な下心が全く無かったと言ったら嘘です)

いやぁ…凄かったしか言えないあたり語彙力酷い。
なんか、どんな言葉で表現しても陳腐になってしまう気がするし、私が生で観た感動の半分も伝えられないんだろうなと思うともどかしい。

それから正直言うと、私は大倉さんの演技どんな感じなんだろう〜とやや不安だった部分もありまして。
だって渡辺いっけいさんといえば、バリバリの演技派俳優さんじゃないですか…(私はspec結のいっけいさんの怪演が忘れられません)
こんな凄い方と共演なんて…しかも2人だけ…。

今までドラマや映画を観た限りでの大倉さんの演技は、下手ではないし真剣に取り組んでるのも伝わるんだけど、上手いかと言われたら特に普通…という印象だったんです(ごめんなさい)

それはきっと、大きな要素としては表情の作り方だと思う。
わりと恋愛ものが多いからキャラが偏っているというのも要因のひとつかもしれないけれど、作品は違ってもあまりそれぞれの人格の違いをそこに見い出せていない印象があった。

あと個人的に一番演技力の違いがでるのは、やはり目の表情と声だと思う。

エイトの中であれば憑依型に近いすばる君(まるちゃんもややこちら寄り)、器用に人格を切り替えられるヤスの演技は、目から下を隠したら別人に思えるほど表情が変わる。

それに舞台は誤魔化しがきかないし、上手い下手が如実に現れる。
あとファンだけが来るわけじゃない、(割合としては少ないかもしれないけど)一般の純粋な演劇好きのお客さんも来てたとしたら「なんだジャニーズかよ」*1とか思われたくないし。

いっけいさんと対等なパートナーとしてお芝居を引っ張っていけているかしら、と(偉そうにも)ハラハラドキドキしていた部分はあったのだけれど、それは杞憂に終わった。
ちょっと心配だわ〜とか思っちゃってたことを東京タワーの屋上からジャンピング土下座で謝りたい。

なんて素晴らしい演技なんだ!ヴァレンティンにしか見えない!!と歓喜したのは言うまでもない。
表情もさることながら、細かい仕草、声の張り方、感情の込め方全て、自身の内部から大倉忠義という人格を切り離し、完全にヴァレンティンが憑依していたかのようだった。
勿論それは、舞台と映像作品の見せ方の違いによるものも大きいのかもしれないし、今まで彼が演じてきたキャラとはまるで異なるからという理由もあるのかもしれない。
しかし、少なくとも私はヴァレンティンを演じた大倉さんから「この役を自分のものにしたい」という熱意をひしひしと感じました。

初ストレートプレイ、初2人芝居、初めてだらけのプレッシャーの中、よくぞここまで仕上げてきたと感動しました。
これは役者・大倉忠義として得られるものがとても大きい作品になったのではないかなぁ。

そしていっけいさんですが…もうね、さすがとしか言えなかった。
あらすじにゲイって書いてあったからどんな感じなのかなと思ってたら…まじで圧巻。
細部に至るまで、女性らしい仕草を完全トレースしていた。
一番衝撃を受けたのは、座り方。
マーメイド座りとかお嬢様座りとか色々呼び方がある、あれです←
男の人だとこの座り方をすることがないから、身体がうまく曲がらなくて難しいって聞いたことあります。
凄く自然に、ふわっと座るんですよ…。


いやはや、こんな素晴らしいステージを観ることができて、本当に嬉しかったです。
ありがとうございました。

千秋楽まで、どうか無事に走り抜けられますよう願っています!!


あ、わりとあっさり流してますが、ベッドシーンあるとは思わなくてびっくりしました。

*1:※私は昔激しいアンチジャニーズだったので、(タレント本人に責任はなくとも)ついそう思ってしまう世論の気持ち分かるんです。