ここに確かに存在している感情の証明

箱推しの村上担。特に三馬鹿に湧きがち。

俺節感想(まとめられないけど)無理やりまとめてみた

※がっつりネタバレ注意!!※

どうもです、ゆづきです。
メンバーの舞台仕事を全て見届けることができたので、感想を残したいと思います。

↓大倉さんの蜘蛛キス感想はコチラ↓
蜘蛛女のキス感想&考察(まとめられないけど)無理やりまとめてみた - ここに確かに存在している感情の証明

あとはジレッタが残っておりますが、凄く感想が難しくて難航しております。
今回は俺節について書かせて頂ければと…。
もう行ける気しないと諦めてましたが、なんとギリギリでお譲り頂けることとなり…感謝感謝です…(´;ω;`)
13時半開演で、終了したのは17時頃…大作でしたね。
お尻痛くなるやもと危惧してましたが、そんなことも忘れるほど入り込み、涙を垂直に垂れ流した素晴らしい公演でした。
私涙脆いので、友人には「お前さんの泣けるは信用度低いw」なんて言われてしまう有様ですけども…いや、これは泣けるよ(笑)
まとめられる気がしないけど、感想まとめてみます。
とにかく!良いセリフがわんさかでした!!
私は舞台は特にセリフが重要だと思ってます。
ガツンとくる一言があるとわーーーーーっ!!てなります(´;ω;`)
それなのにセリフはっきり覚えてないの痛い…メモ帳持っていくべき??でもいざ本番になったらメモること忘れそう←

※記憶が曖昧な為、セリフは微妙に間違っている可能性が大なのでニュアンスで捉えて頂けるとありがたいです。
なるべく時系列に沿って簡単にあらすじを追っていますが、場面が前後している箇所もあります(ぐだぐだ)



6/16 俺節 in赤坂アクトシアター

原作未読の為、前知識なしで観劇(いつもそう)
津軽弁はだいぶ軽くしていた印象。
ヤス演じるコージがおばあちゃんにスーツをもらって、青森から上京してくるところから始まる。
最初ポスター見たとき、なんかスーツ大きめじゃない?と思っていたのだけど、それがなんだか初々しさというか…都会に慣れていない感が漂っていてよかった。
コージは素直で、真っ直ぐで、人の為に一生懸命になれる人。
流れ着いた横丁でヤクザに追われてるテレサ(シャーロットさん)を見て、青春マンガばりの無謀な突っ込みを挑んで倒れるあたり、熱すぎな前のめり青年。
ここで初めてコージが歌をうたう。
じつはあがり症で人前になると恥ずかしくて歌えないコージが歌えるのは、言葉にできない想いが溢れてきたときだそうな。
ヤスの歌…技術的な上手さは勿論だけど、それ以上の胸に迫る何かがあった。
それってなに?と聞かれてもうまく答えられない、恐らくその何か分からないけど、というのがただ上手いだけの人とエンターテイナーとの違いなんだと思う。
歌に気持ちを乗せる、感情を込めるってこういうことなんだろうなと思う。

テレサは違法入国の売春婦である。
ヤクザの経営する店で他の外国人女性達と共に働いている。
そういうところでないと、違法入国がバレて強制送還されてしまうからだ。
コージの歌が頭から離れず、思わず口ずさんでしまうテレサと、たまたま連れて来られた店で再会するコージ。
彼女を連れて控え室まで逃げてきたコージは、「ふるさと」を歌う。
その曲を聞いて、一緒に働いていた外国人女性が激昂するシーンがある。
「ふるさとなんて、私達はもうそんなのとっくに忘れて生きてんだよ!!」と怒鳴るのだ。
この店で働いている女性はみんな、自分の国にいる家族にお金を送る為に身を売って生きている人たちだ。
全編通して思う、この物語に出てくる人達は誰ひとり適当に生きていない。
命を削り、痛みを感じて生きている。

テレサの仲間から「中途半端に優しくするな」と忠告を受けるコージだが、もう彼の中でテレサへの愛情は止められないものになっていたのだと思う。

「君の為に頑張る」と言うコージと一緒に店を出る決心をして、2人は逃げる。
(この時テレサのお店の女性達も協力してくれるの…泣けるわ)


歌の方はというと、コージは横丁のギタリスト・オキナワ(福士さん)と共にコンビを組んで、流しをしている大野(六角さん)を師匠と呼び、スナックで流しの経験を積んでいく。
そこでをコージの歌を聴いた大物演歌歌手・北野波平(西岡さん)のセリフが深い。
「君は今、誰の為に歌っていた?」
コージは「お客さんの為に」と答える。
これに対し、「じゃあそのとき君はどこにいた?」と聞く。
質問の意味が分からないコージに、北野は続けて「私はこの歌の中に君の姿が見えなかったよ、客は歌に自分を見るんじゃない、歌っている君の中に自分を見るんだ」と言う。
これは原作にもあるセリフなのかな?それとも脚本オリジナル??だとしたら凄いとしか言えない。

曲の中の主人公に自分を投影するのではなく、歌い手に自分を投影している。
歌手という仕事の真意を突いた言葉だと思う。
ただのカラオケ好きと職業歌手の違いは何か、私は分かっているようで分かってなかった。
本物の歌い手は、誰よりも曲の中に入り込む。
絶望の歌をうたうなら誰よりも絶望して、愛の歌をうたうなら誰よりも愛に溺れる。
その姿を見て聴き手は自己投影し、感情移入するのだ。

コージはまだその意味を掴めていないまま、デビューを目指してオーディションに挑む。
結果は不合格だったが、審査員の戌亥にスカウトされる。
だが、戌亥が声を掛けたのはコージのみ。オキナワはギタリストだから、演歌で2人組はおかしいという理由だった。
優しいコージは悩みに悩むが、オキナワの方から別れを告げる。

このあと自棄になってどんどん堕ちてくオキナワに感情移入が止まらない。
行き場のない憤りをぶつけるかのように借金取り?の仕事にのめり込み、負債者を追っかけ回してボコボコにする。

「こうして思い出すんだ、俺は犬っころだったってな」とこぼして、果てには北野を脅して逆に捕えられ、地下牢に放り込まれる有様。
手に持てるものはホウキくらいの牢で、オキナワは無意識なのか歌を口ずさんでいる。
彼には作曲の才能があった。
北野に対して小学生みたいな反発心で抵抗するものの、君はギターが好きなんだ、才能ある作曲家なら出してやる価値があると諭される。
夢を失った絶望と、うまく生きられない自分を恨み、葛藤して、彼はコージの為の曲を作る。
どんなに希望を絶たれても、見ないふりをしても絶対に捨てられないものがあるのだ。

一方、コージはデビューを目指してレッスンに通っていた。
ダサいと言われるスーツも脱がず、津軽弁も直す気がない。
スーツはおばあちゃんの想い、そして他にも応援してくれているテレサや夢を絶たれたオキナワの想いも背負ってコージは生きている。
そんなとき、デビューのチャンスがきた。
戌亥と恋愛関係(なのか?)の元アイドル歌手とデュエットで、曲は引越し業者のCM曲。
だが相方のアイドルはめちゃくちゃやる気がなさそう。
戌亥にデュエットだと紅白は目指せない、CM曲だとヒットは難しいなどなど不満をぶつける。
そんな彼女に「若いやつは隙間がある、そこがいいんだよ。その隙間に客(の感情?)が入り込んでいけるんだ。歳とるとだんだん隙間が無くなっていくだろ?無駄なプライドとかが邪魔してさ」と戌亥は言う。
この、つまらない大人になっちゃった人を形容しているセリフ凄くいい。
”隙間がなくなった大人”とは、このアイドルのような人のことを言うのだろう。
若くして人気を博し、年齢と共に低迷して自身に限界を感じていた彼女は、それを誰よりも分かっている。
その後、相変わらずにこにこ笑顔で一緒に頑張ろうと言うコージにアイドルは「あんた分かってる?この曲が売れたらコンビは解消、あんたは私の踏み台なのよ!」と啖呵を切る。
それに対し、コージはそれでもいいと笑顔を向けるのだ。

Wantの人とMustの人、という区分けを聞いたことがある。
Wantの人は「自分はこうしたい」「これがやりたい」という気持ちでいっぱいで、努力を努力とも思っていない。
Mustの人は「こうあるべきだ」「これをしなくてはいけない」という考えで動いていて、そこにある自分の気持ちは薄い。

コージはWantの人、アイドルはMustの人、なのではないだろうか。
雑誌のインタビューで、ヤスはコージのことを「なんでも欲しがる人」と言っていた。
歌も、テレサとの恋愛も、全て彼は全力でぶつかって生きている。
Wantでしか動いていない、コージはWantの塊なのである。

そんなコージを見たアイドルは、「なるほど、隙間だらけだ」と呟く。
若く、未来への希望に溢れた彼には、目の前のことしか見えていない。
それに感化されたのか、アイドルは自分が子供の頃に家の炬燵でテレビを観ながら画面の向こう側の世界を夢見たことを話す。
なんかやる気出てきちゃった、と言った彼女はMustの人ではあるけれど、この時ばかりは自分の気持ちが前に出たのだと思う。


だが、全て順調にいくわけでもない。
テレサとの突然の別れが訪れた。
「君の為に」と言うコージに、テレサ「あなたの負担になりたくない、自分の為に生きて」と伝え、自ら警察に出頭して強制送還される道を選ぶ。
コージは別れが辛すぎて泣き叫ぶけれども、そのあとは徐々にスーツを変えて、標準語に近い話し方になっていく。
背負っていたものが軽くなったとボヤいた彼は、自分の為に歩き出したのだ。
コージはWantの人ではあると思うけども、何よりの原動力は”誰かの為”なのかとも思う。
歌う理由もお客さんの為、デビューに向けて頑張るのはテレサや見送ってくれたおばあちゃんの為でもある。
コージの「自分の為に生きる」手段と「誰かの為に生きる」手段、それが歌なのだろう。


しかしここで、デビューの話も思いもよらないところで破綻してしまうこととなった。
スポンサー?の男との飲みの席で、コージはアイドルが脱ぐ仕事をすることを聞かされる。
それをよしとしているスポンサーにブチ切れ、コージは咄嗟に相手をぶん殴ってしまう。
何をするんだと焦る戌亥とアイドルに、コージはそれでいいんですかと聞く。
「それがあなたが炬燵の上で描いた夢なら、僕は何も言いません。でも、違うならそんなのおかしい!」と言うコージに、アイドルは「いいって言ってんでしょ!」と意地になる。
結局、スポンサーを怒らせたコージのデビューは取り消しになり、平謝りに行くのも虚しく話は立ち消えになってしまった。
「あんた、踏み台にもなれないんだね」と捨てセリフを吐かれながら。

デビューのチャンスを潰し、テレサもいない、絶望に打ちひしがれたコージは横丁に戻る。
もう何一つ頑張る理由がないコージの元へ、オキナワがやってくる。
彼の為に書いた曲を持って行くが、コージはそれを頑なに受け取ろうとしない。
自分にはもう何もないと言うコージに、「そっか、ちょうど良かった。なんもなくなったお前とだったらまた始められる気がしたんだ」と答えるオキナワがカッコよすぎる。

意地になるコージだったが、アイドルグループの前座ではあるけども戌亥が野外ステージで歌える機会を与えてくれた。
仕事ならやらなければと向かうも、現場はアイドルグループのファンでいっぱいで、ステージに立ったコージは罵声を浴びせられる。
おずおずと弱々しい声で歌い、ステージから去ろうとする彼にオキナワはもう一度自作の曲を渡す。
そしてそのとき、国に帰る直前のテレサも客席に現れる。
「さっきの歌、コージらしくなかった。もう一度歌って!」と叫ぶテレサの言葉に押され、コージはようやくオキナワから曲を受け取る。

この曲の歌詞は演出の福原さんが書かれたもののようです。
もともと俺節の大ファンで、ずっと前から舞台化を熱望していた末の今回だったそうで…。

ひとりで生きていけるのと
つよがり放した手だけれど
夜と朝の境目に見る夢で
お前の名前を呼んでいた

おーい おーい ねぇ
届いているかい
もっと傍まで来てくれよ
心の中まで入っておいで

俺が俺と言うときは
俺とお前で俺だから
俺の俺節 お前節

ラスト、大雨の中でコージは歌う。
途中からマイクの音がブチブチ途切れて、髪も服もびしょ濡れになっても最後まで歌いきる。
このシーンは涙が止まらない、特にこの曲はオキナワが作ったという設定になっているのが余計に泣かせる。
あとテレサ「私とあなた(コージ)で私だから」というセリフも。
結局強がっていても、ひとりでは生きていけないのだ。
誰かの想いを背負って、共有してこそ生きていける。
最後の最後、持てるだけの力を擦り切れるまで出し切ってヤスはこの曲を歌い上げていた。
底辺から這い上がろうとする青年の心の叫び、それを一身に受けて見事なまでに表現していたと思う。

コージの人生をかけた戦いは、まだまだ始まったばかり。
恵まれたデビューなんてほんのひと握りで、例えデビューできたとしても登りつめていくのは更に過酷を極める。
上がっている実感がある内はいいけど、その後は少しでも下がると不安に襲われる。
やがてトップまで登りつめることができたとしても、ずっとその地位を維持するのは並大抵のことではない。

ヤスは、コージに自分を重ねていたりしたのだろうか。
アイドルとして苦労時代を経て日の目を見て、誰かの背中を追いかける時期はきっともう終わっている。
次は後ろから突き刺されないようにスピードを緩めることなく、むしろどんどん速度を上げて走り続けていかなければならない。
でもヤスはコージと同じように、一緒に想いを背負ってくれる仲間がいるよね。
それはきっと、とても強いこと。
貪欲にあるべき未来を求める姿、がむしゃらになって地べた這いつくばって戦う姿があれほどまでに美しいとは思わなかった。
あの泥だらけの美は、ヤスにしか出せないものだと思ったよ。


それから、パンフに載っていた原作者の奥様の言葉がとても心に響きました。

(一部抜粋)
光り輝く夢や希望だけが人を動かしているのでしょうか?
あるいは、叶わなかった夢や破れた希望こそが、私達を走らせてくれているのか?
そう、私は思います…夫の作品がもしも誰かのこころを打つのだとしたら、それは、どんなに願っても願っても手の届くことのない夢を描いているからこそ、なのだと。

原作者の土田さんは21歳でこの作品を描いたそうです。
43歳で死去するまで、純粋に幸せになりたいという夢を犠牲にして漫画を描き、自分が生きられなかったもうひとつの人生をコージに託していたと。

土田さんは、コージみたいに青臭いほど純粋で、真っ直ぐに生きたかったなのかな。
私はこの物語の中で生きている人、みんなに感情移入することができた。
とても人間らしくて、生身の「生」を感じたからだ。
出番の少ない人物にもちゃんと人間味があり、演出の福原さんの力量を感じました。
原作もきっと素晴らしいんだろうな。


この舞台の時代より、今の日本はずっと物質的にも経済的にも恵まれているはずなのに、何故かどんどん生きづらい世の中になっていると思う。
先進国の中でトップクラスの自殺率のこの国では、年間2万人もの人が自ら命を絶っている。
今は昔と違って人との関係が薄くなったなんて言われているけど、むしろ逆でしょう。
SNSが普及した影響で24時間いつでも誰かの毎日を知ることができるようになり、誰かの意見を吸収することができるようになり、むしろ濃くなり過ぎている。
ソーシャルデトックスなんて言葉ができて、SNSがなかった頃と比べて格段に精神を病む人が増えた。
(勿論、自殺理由の全てがSNSが原因ではないけれど、精神疾患急増の一端を担っているとは思う)

私もかつて、たった一度だけ本気で死を考えたことがある。
人間て結局孤独なんだよな、と思う瞬間は今でも腐るほどあるけれど、死に囚われていた日を忘れてしまうほど今では普通に過ごしているが、この物語の人達のように必死になって生きてなんていない。

今この世は、死んだように生きている人間で溢れ返っている。
観る者に、自分はどう生きるのか問いかけてくる作品だと思いました。

ありがとうございました。