ここに確かに存在している感情の証明

箱推しの村上担。特に三馬鹿に湧きがち。

村上氏に対する気持ちと勝手に向き合ってみた件

九州地方にお住いの皆さま、本震と度重なる余震、恐怖とストレスでお疲れのことと思います。

思い返せば5年前、寝ているときにも迫ってくる地鳴りと余震で気が休まらず、いつでも外に出られるように玄関以外のドアと窓は開けっぱなしでジーパンを穿いたまま寝ていました。

陸自でもない遠方の一般人になど、募金と九州のアンテナショップでお金を落とすことくらいしかできませんが、皆さまに一日でも早く平穏な日々が戻ることを祈ります。

 

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ずっと下書きに保存されていた記事が、やっとまとまりました。

今回はちょっとだけ真面目です。

 

自分の中の、所謂『ファン心理』について、ふと考えてみた。

10代の頃、私はヴィジュアル系バンドの追っかけ、つまりバンギャであったわけだが、その時の感情は『痛すぎる恋』に近かった気がする。もはや宗教レベルの盲目的愛情で彼らを崇め奉り、貢ぎ、彼らのやることなすことにいちいち感情が激しく反応して一喜一憂していた。年齢的なものもあったと思うが、今考えるとかなり精神的に疲れる日々を過ごしていたと思う。

さすがに今はもういい大人なので、そのレベルにまでいくことはないであろう。「もう全部が大好き、なんでも良く見える!!」っていうふうにはならないし、どうしても受け入れられなかったりする部分があったら(できる限り努力はするが)基本的に受け入れられない。先輩エイタ―K氏がある日こんなことを言っていた。

 

「CD発売とかのタイミングで一気に露出が増える。今まではずっと漏れなく追いかけきたけど、ある瞬間にもう追いきれないと思った。ひとつひとつに感情移入していたら自分がもたない」

 

非常に共感できる言葉であった。

私もある程度距離を保って、自分のメンタル管理を最優先させている。

正直に言うと、疲れるのだ。もともと私は性根が捻くれていて歪んでいるのだが、それ故に美しい景色や映画や音楽や小説や漫画などに出会うと、自分の心がいかに荒んでいるかを思い知らされ、しょっちゅう泣いている。人にオススメされた映画などを一緒に観て、ススメてきた人より泣いているという体たらくにより、友人にはONK*1と言われる始末。よって、あまり深く入り込んで自分の感情が必要以上に乱されるのが嫌というのが一番の理由である。こういうと人によっては「それは本気で好きじゃない」と思われるかもしれないが、私的には今ぐらいの距離感が一番ちょうどよく、私は私にできる範囲でお金を落とし、応援している気持ちを手紙に書いたりと「本気で」エイトさんを応援しています。

しかし、そんな自分のことを結構「嫌な大人になったな」と感じる瞬間もある。もっと純粋にのめり込みたいという気持ちもあるが、この歳でそれはねとか、そもそものめり込むということが純粋なことなのかということを考え始めると永遠に結論が出ない。

 

前置きが長くなってしまった。やっとここからが本題です。

今回、私は村上信五に対する気持ちを考えてみた。いつもならあまり考えないことだが、どうも「元気が出るSONG」の詞を読んでモヤモヤとした気持ちが浮かんできたので考察してみようと思った次第です。

まず「恋」のような盲目的なものではない、「愛」にはほど遠い。「憧れ」という言葉が一番近いかなとは少し思った。「憧れ」は非常に広い意味で使用できる便利な言葉である。

では私は彼の何に憧れたのだろうか。色々考えを巡らせてみたら、ふたつの言葉が浮かんできた。

 

「嫉妬」と「羨望」

 

まず私は、彼の「ずっと一緒と言い合えるような仲間がいる」という部分に羨望した。

そして自身が身を置く世界において「自分は何者か」というアイデンティティを確立できている部分に嫉妬した。

 

私には「心の中で繋がっている」とまで言えるような人はいない。勿論友達や音楽仲間はいるし、彼氏もいた。彼ら彼女らのことは大好きなので大切にしているし、困っていたら力になりたいと思う。しかし、自分が辛いときには相談しない。それは家族にも同様である。決して相手を信頼していないわけではなくて、向こうから「支えになるよ」と言ってきてくれても「なんで私に?」と思ってしまうのだ。これはもう私の捻くれが問題なので誰にも罪はない。恐らく、凄く深いところで心を閉ざしているのだろうと思う。いつかはそれをもこじ開けてくるような猛者が現れたりするのかもしれないが。つまるところ、私は彼らの「素直さ」に羨望したのだろう。素直にお互いに甘え合ったり助け合ったり、支え合ったりしている姿が自分にはないものだったので羨ましいと思ったのだ。

 

「嫉妬」を感じたのは、村上氏がきちんと自己を確立しているという点である。

私は幼少期から「何かになりたい」と常々思っていた。漠然としていたが、「貴方は何者ですか?」と聞かれて「私は〇〇です」と言えるようになりたい。それを求めて小学生の頃から作詞や歌やキーボードを始めて、高校生くらいからバンドを始めた。キーボードを弾いてるときは私は「キーボーディスト」と言えたし、歌っているときは「ボーカル」と言えたし、詞を書いてたのは自分が作り出した言葉が歌い続ける限り残るからである。20代半ばまで続けて、それなりのところで音楽は断念してしまったけども。今は別の目標を見つけたのでそれを追いかけている。死ぬまでに実現しなければという強迫観念に駆られながらであるが。

村上氏は自身が身を置く「芸能界」、そして「ジャニーズ」という世界の中で、もうじゅうぶん「自分は何者か」というものを確立できているように見える。勿論本当のところは本人にしかわからない、仕事においては自己の確立なんてほど遠いと思ってるかもしれない。…が、私から見たらそうなのだ。ここまでくるのにはきっと、相当の苦労があっただろう。私に彼と同レベルの努力をしてみろと言われても恐らく無理である。それを実現できたという部分に嫉妬を感じ、その努力と実直さに単純にひとりの人間として「惚れた」のだろうと思う。

 

それらをひっくるめて、私は村上氏に対する気持ちを「憧れ」と仮定した。

もっとも、そんな重苦しい感情ばかりではない。キモヲタらしく、村上氏のふとした仕草や言動に萌えを発動させたり、ライブDVDで初めて動いているバブーンさんを観て愛おしさを爆発させたりといったすこぶるドストレートな「ファン心」がほとんどである。この部分に関しては分析や理由付けは不能。それにしても、一度何かのきっかけで気になり始めると、今まで何とも思ってなかった部分が急に可愛く見えるのだから脳の作りとは不思議だ。

 

今回は今まで私が感じていた「ファン心理」とはちょっと異なり、好きになったきっかけも私的には衝撃事件*2だったので分析をしてみました。完全な自己満足記事。

ああ、なんか頭の中が整理されてすっきりした。これで今度から誰かに「村上君のどこが好きなの?なんで好きなの?」と聞かれたら自信を持って「周囲の人々を信頼し続ける素直さと優しさ、そして非常に勤勉で自分が身を置いている世界においてアイデンティティを確立できているところでしょうか、憧れます!!キリッ」と答えられる(^o^)/*3

好きになるには理由はいらないが、好きでい続けるには理由が必要である。

 

以上、無駄に長くて誰の得にもならないひとり語りでした。

恐らく、数日後に改めてこの記事を読み返したとき「コイツなに語ってるんだろ」と恥ずかしくなっていることでしょう。

※色々日本語間違ってたらすみまてん。 

*1:お前・泣かす・簡単の略

*2:4/5の記事参照

*3:今まで理由がまとまらなくて、なかなか答えられなかった